グレート・ゲーム

グレート・ゲーム

暇な時間、WikiPediaを適当に検索して眺めて過ごすことが多い。WikiPedia の性格上、その記載内容が本当に正しいかどうかの判断はつかないのだが、個人的に興味深く感じられることも多数ある。
今日はそのなかで「グレート・ゲーム」について。
原義では、『グレート・ゲーム(英語 the Great Game)は、中央アジアの覇権を巡る大英帝国とロシア帝国の敵対関係と戦略的抗争を指す。中央アジアをめぐる情報戦をチェスになぞらえてつけられた名称』とのこと。

『実際の英露抗争は、ユーラシア大陸国際政治史の別方面、極東においてより激しく争われた。中央アジアにおける英露抗争に連関する極東国際政治史には、大英帝国・ロシア帝国(のちにソビエト連邦)に加えて日本・アメリカ合衆国・中国や多数の周辺諸国がプレーヤーとして参加しており、途中からは米ソ両超大国の争いへ継承され、現代においても多数のプレーヤーが参加するという経緯を辿った。
極東方面での諸国間の抗争はグレート・ゲームの盛衰と切り離せなかった。』

第II期に中心的なプレイヤーとなる日本についての記述は、特に興味深い。

第II期のグレート・ゲームは、1917年の2番目のロシア革命から第二次世界大戦の勃発による英露協調までであるが、ユーラシア大陸国際政治史から見ると、1917年のロシア革命からベトナム戦争の終結までの長い期間が背景として視野に捉えるべき期間である。

第二次世界大戦を挟んで英国がプレーヤーを降りて米国がその座を占めた。ロシアがソ連に変わり、中央アジアではそれほど激しい抗争が発生しない時期が続いたが、極東においては英国の地位簒奪を狙う米国の介入と、当初は英国が用意した駒に過ぎなかった日本が勝手に暴走し始めた事によって、激しい変動が続いた。

ゲームの駒からプレーヤーになった日本にとって、英国の衰退が決定的となる1930年代まで、ユーラシア大陸における英露対立は外交政策策定における大前提だったが、その思考を固定化してしまったために、ソ連の出現と米国の台頭により複雑になってゆく状況に適合できないまま、東南アジアの英領植民地奪取という“反則行為”によって、英国がゲームを続けられなくなるきっかけを作ってしまい、日本自らは英国に替わってゲームに参加した米国によって“出場停止”処分となってしまった。

また、この時期は帝国主義という商法が終焉を迎えた時期、および米ソ超大国の抗争の時期と重なり、中国・朝鮮・東南アジア・南アジアで激戦が続いた。

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